なぜ小説には「もれ聞こえ」があふれているのか?
以前から、なぜ小説には「盗み聞き」や「もれ聞こえ」があふれているのか、気になってきた。物語では「盗み聞き」は必ずと言っていいほど、大きな展開をもたらす。盗み聞き、漏れ聞こえだけでなく、耳鳴り、告げ口、盗み見、垣間見など、本来、見たり聞いたりするはずでないこととの出会いは小説世界を大きく動かす。第1回では、旧約聖書、ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』、メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』、ナサニエル・ホーソーン『緋文字』、志賀直哉「小僧の神様」などを概観し、第2回では大江健三郎「飼育」と川端康成『山の音』を精読。以下、連載から抜粋する。
なぜ盗み聞くのか
言葉は誰に聞かれているかわからない。本人が知らないところで、思いもかけない人が、こっそりあなたの言葉を聞いているかもしれない。そもそも人は古来、他人のやり取りに聞き耳を立てるのを得意としてきた。明らかな狙いがあることもあれば、興味本位のこともある。言葉が届く範囲をコントロールするのは難しい。ひそひそ声で話しているつもりでも、どういうわけか外に漏れて伝搬し、流通し、いつの間にか知れ渡っている。あるいは知られるはずではなかった人に、聞かれてしまう。
盗み聞かれた言葉には、起爆力がある。怒りをかき立て、悲しみを深め、悪意や憎悪を生む。危険極まりない。同じ台詞でも正々堂々と正面から吐かれれば問題ないのに、漏れ出したとなると、俄然、毒性が強まる。盗み聞きがきっかけとなって謀は進み、反乱には勢いが増し、ときには血も涙もない粛正が行われる。
盗み聞きは政治的である。相手に知られずに言質を取ったり情報を得たりすれば、相手の一歩先を行ける。上手に場を支配し、権力を確保できる。聖典や芝居や小説でもそんな様子が多く描かれてきた。『新約聖書』の「ルカによる福音」(20章、20節)では、イエスのことを快く思わないユダヤ教の律法学士たちが、イエスの元に人を送ってローマ皇帝への忠誠を確かめるような質問をさせる。皇帝に「貢」を払うことは適当か?とイエスに問い、影でその返答に聞き耳を立て、言葉尻をとらえて陥れることを計画した。しかし、イエスは彼らのたくらみを見抜き、「チェザル(=ローマ皇帝)のものはチェザルに、神のものは神にかえせ」と堂々と答えてみせた。[i]これはローマ皇帝には反逆しないが、他方で神の地位をも否定しない、という上手な返答だった。こうして律法学士たちの計略は失敗する。
盗み聞きされる言葉は、しばしば他の言葉よりも注目度が増し、ストーリー展開でも鍵になる。芝居作品でも格好の演出装置として立ち聞きや漏れ聞き、盗み見などが活用されてきた。シェイクスピアの『ハムレット』は盗み聞きの場面の多いことで知られるが、中でも重要なのは、有名な「生きるべきか、死ぬべきか」の場面である(3幕1場)。このとき、宮廷では不穏な空気が流れていた。ハムレットの様子がどうもおかしい、精神を病んでいるように見える。しかし、ほんとうのところはわからない。真相をさぐるべく、国王たちはハムレットを呼び出してオフィーリアと会わせることにする。そして二人の会話を、国王のクローディアスとオフィーリアの父の内大臣ポローニアスとが物陰に隠れて盗み聞く。もしハムレットの乱心がオフィーリアへの恋心から来るのであれば安心だと周囲は考えた。国王も王妃もポローニアスも、そしてもちろんオフィーリアも、ハムレットが元のような青年に戻ってオフィーリアと結ばれれば事が丸く収まると思っている。
ところがハムレットの方は、有名な「このままでいいのか、いけないのか……(to be or not to be)」とのセリフとともにひとしきり煩悶した後、しばし思弁にふける。[ii]そしてオフィーリアを前にすると、「尼寺へ行くがいい」などと、彼女を傷つけるような言葉を投げかけ絶望させてしまう。[iii]尋常ではない心の乱れとも見えるが、物陰でハムレットの言葉を聞いていた国王とポローニアスは、そこにあやしさを感じ取る。ハムレットは必ずしも狂ってしまったわけでなく、何かを腹に抱えているのではないか。自分たちにもいずれ危険が及ぶのではないか。そんな風に彼らは考えた。だから、どこか自分たちをおびやかさない場所にハムレットを送ってしまおう、という話になる。(後略)
『フランケンシュタイン』でも、盗み聞きと盗み見は重要な意味を持つ。なぜなら怪物はそのおぞましいみかけゆえ、人目につくことを避けざるを得ないから、隠れて物陰から人間を観察せざるをえないから。
怪物はそのおぞましい見かけゆえ、人間の社会から疎外される。怪物には当初、悪意は一切無い。むしろ無垢さと善意だけにあふれていた。ところが周囲は彼を受け入れなかった。その結果、怪物は「盗む」という形で社会とのかかわりをはじめざるを得なくなる。食べ物を盗み、居場所を盗み、言葉を盗む。それらを土台のところで支えたのが、「盗み聞き」と「盗み見」だった。
考えてみると、怪物誕生にも「盗む」という行為がかかわっていた。フランケンシュタイン博士は墓場を漁って、勝手に死体のパーツを集め、それらをつなぎあわせることで怪物の身体を作り出したのである。怪物はその誕生からして、「盗み」という行為を象徴的に体現した存在だと言える。博士の野心を突き動かしていたのは啓蒙主義的な知への欲求であり、本来は明るい「光」の隠喩でとらえられるべきものだが、実際の作業にはグロテスクで暗黒的な要素が伴うばかりか、悪と秘密の香りさえ漂う。[i]
のぞきの権化
そして、秘密とのぞきや盗み聞きの葛藤と言えば、なんと言ってもホーソーンの『緋文字』。
罪が秘密と化して一人歩きする、という物語としてもっとも有名なのは、ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』だろう。これは、世界文学でも希に見る「盗み見小説」である。『緋文字』はホーソーン初期の作品で、それほど派手な展開があるわけではなく、舞台も限られているが、のぞきを柱にした、見る側と見られる側との行き詰まる心理劇を徹底的に書きこんだ小説である。
メインの物語は「さらし」の場面から始まる。姦通罪の刑期を終えて出獄したへスターは、胸に姦通adulteryを示すAの文字のある札をつけられている。しかし、罪人であるはずの彼女はむしろ不思議な輝きを放っている。この後、彼女は裁縫の仕事をつづけながら子供を育て、徐々に人々の信頼を得ていく。これに対し、へスターの姦通相手のアーサー・ディムズデールのことは誰も知らない。実は、彼は聖職者だった。一七世紀のニューイングランドでは宗教関係者は非常に尊敬され、権威があった。出獄後のへスターも彼らによって見守られている。ところが、その聖職者のひとりがヘスターの姦通相手だったというわけである。へスターは決して姦通相手の名前を明かさず、一身に世間の呪詛を浴びている。アーサーはそれを目の前で見ている。しかし、真実を告白することができない。こうして彼は、聖職者の仮面をかぶりつつ、心の内に罪の意識をかかえることになり、そのせいで精神と身体とを荒廃させていく。
そこにもう一人、重要な人物が現れる。へスターの元夫のロジャー・チリングワースである。初老のロジャーは医学を専門とする頭のいい人間だが、どこか冷たいところがあり妻に対する愛情にも乏しく、これがへスターの姦通の遠因ともなった。ロジャーは元夫ということを世間に隠したままへスターに近づき、彼女の体調管理を引き受ける。
ロジャーは「のぞき」の権化だった。彼はへスターの過去のすべてを知り、彼女を見張る。しかも、自分が夫であることをぜったい口外するな、とへスターに命ずる。復讐の鬼と化した彼は、へスターに秘密を押しつけたうえで、妻の姦通相手を突き止めるべく暗い情念を燃やす。至近距離からヘスターを監視し続けるのも、それが目的だった。(後略)
[i] 『新約聖書』、二一六頁。
[ii] シェイクスピア、一一〇頁。ハムレットの独白と盗み聞きは三幕一場にある。
[iii] 同、一一三頁。
大江健三郎の「盗み読み」事件
大江健三郎には有名な「盗み読み事件」があった。創作の原点と言ってもいい出来事である。東京大学に入学してからというもの、大江は駒場の図書館にこもって夕方まで本を読みふけるという習慣があった。ある日のこと、隣りの席にやや年上で院生か若手の教員に見える人物が座っていて、大きい洋書を読んでいるのが目にとまった。 大江はこの本に興味をもった。ハトロン紙にくるまれており、図書館の蔵書ではなく本人のものと思われた。頁は活字がぎっしり組まれているが、行数が印字されていることからして韻文らしい。長編詩のようだった。
大江は持ち主がトイレに立ったすきに、開かれたままの頁をのぞき込んだ。すると目に入った二行に強く惹きつけられる。内容としては、だいたい次のようなことが書いてあるようだった。「私たちは都会に出て労働し、学び、それを忘れ……というようなことをするために、地方の暗い谷間から出てきた。ダーク・バレーから出てきたんだ」。 暗い谷間から都会に出てくる、という一節は若き大江の像に重なる。
近代小説はこのような目と耳の格差を逆手にとってきたジャンルでもある。つまり、「正式でない目と耳」を機能させることでこそ小説は活性化してきた。正規の視線に対比して、どちらかというと劣位にあるような視線からの、従って優位な立場にある者たちを見仰いだり、うらやんだり、ときには恨んだり、さらには批判したり、軽蔑したり、それゆえ暴いたり、ときには転覆したりしようとする視線が、小説を動かしてきた。正面から制度の力で、あるいは肉体にものを言わせた暴力や武力で格差を跳ね返すことはかなわないかわりに、こっそり盗み見、盗み聞くのである。実際、「飼育」でも盗み見は、少なくとも一時的には秩序転覆に結びつく。ノーマ・フィールドの言葉を借りれば、「子供達の間で、黒人兵を動物(ストレンジャー・)王(キング)として設けることによって、〈僕〉は〝反〟県庁・町・大人(彼の視点からは〈大人〉としても〈日本〉としても総括し売ると思うが)的共同体の指導者になる」のである。[i]
正式な目線ではない少年の目は、一つ一つの動きや動作を大きな状況の中に整理して位置づける余裕がない。そのために、それぞれの動きを動作主体から切り離して宙づりにしたままとらえてしまうのである。主語のない動詞をこれほどまでに繰り出せるのは、若き大江の文学的動体視力のなせるわざだろう。そこからは他者や自己といった枠組から比較的自由な、ただただ存在しエネルギーに駆られるまま進みいく文章の熱のようなものが感じ取れる。
『山の音』と漏れ聞こえ、のぞき見
たしかに三島が言うように信吾が「山の音」を聞く場面では、改行の絶妙な使い方が効いている。文章の読み心地として、まるで、ぬっと音が現れ出てこちらに迫ってくるような感覚がある。「山の音」には神秘的な何かが暗示されるが、それは単なる観念ではなく、唐突に音が聞こえることの、その遭遇性や不明性、異物感などが渾然一体となって文章を活かす。文章に依存した小説世界であればこそ、言葉が生み出す異物感は重要である。このあたりにこそ、漏れ聞こえが小説世界を動かすことを理解するためのヒントを見出すことができるかもしれない。
太古の昔から私たちは音に震撼してきた。雷にせよ、獣の鳴き声にせよ、目に見えないところに発する音は大きな力を連想させ、人間の生命を超えた世界、究極的には死と無の世界を垣間見させる。もちろん、キリスト教で聖職者となる者が、神の声がけ(calling)を耳にするとされることからわかるように、超自然的な音は恐怖に直結するとは限らない。音の背後にある大きな力が人間を救うこともある。ただ、いずれにしても畏れの対象なのである。
『山の音』の修羅場のほとんどは、私たち読者の眼前に提示されるのではなく、間接的に伝聞の形で語られるだけである。戦地から帰って心が安定しない修一が絹子を愛人にしてその家に入り浸り、酒を飲んで暴れているといった様子も直接的には描かれることがないし、上述の絹子の妊娠や、これに続く修一の堕胎強要や暴力も、あくまで間接的に伝わるだけである。房子の夫の相原は、麻薬の密売に手を出すところまで落ちぶれたが、そんな相原が房子をどう扱ったか、ついに別の女と心中沙汰を起こすまでにどんなことがあったかの詳細などは、新聞記事が出るまで小説中には描かれない。
もはや老境に入り、第一線で現代社会の風俗に触れ合うことも少なくなった信吾にとって、若者たちの現実は一枚膜を隔てた向こう側から漏れ聞こえてきたり、垣間見えたりするものとなった。若く生々しい現実は、信吾にはもはや扱いかねるようなものと化しつつある。そういう意味ではこうした漏れ聞こえの構造は、老境ならではのリアリティの構造をよく映すとも言えるだろうが、実は『山の音』に三島をして「おそろしい」と言わしめるような奇跡的な瞬間を顕現させているのは逆の事態だとも思える。つまり、老境という設定はあくまで仮のものとしてしつらえられているだけで、本当は、小説中の聞くことや見ることに本質的に伴う「盗み」を、より先鋭に表現することがこの小説の本務だったのではないかということである。
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