太平洋戦争と魚雷の恐怖 ~ 戦争と事務(2)

駆逐艦で主計官をしていた父親の魚雷体験
阿部公彦 2026.03.06
誰でも

イランのフリゲート艦が米潜水艦の魚雷により撃沈された。「米潜の魚雷による沈没は第二次大戦以来」とのこと。考えてみれば、太平洋戦争で日本の船団・艦隊を壊滅させたのも、米潜水艦の待ち伏せ魚雷攻撃だった。「雷撃」は日本の海軍に恐怖を与えた。現在、刊行準備作業中の「群像」連載「父たちのこと」には、魚雷攻撃を受けた父の体験の記述があるので、以下に紹介する。

 その日の午後、私の父の阿部克巳はデング熱が直り切らず、艦橋前の発射管の側にキャンバスの折椅子を持ち出して休んでいた。洋上を航海する船舶のデッキで寝そべる若者は、一見すると優雅なバカンスを楽しんでいるようにも見えたかもしれない。

 突然、艦首見張員二、三人が、一斉に「艦首に雷跡! 潜望鏡!」と悲鳴の様に絶叫した。続いて艦橋の見張も叫び声を上げ、艦上は騒然となった。この奇妙なほどに長く感じられた生死の境目を、克巳は次のように描く。

艦は、直ぐに面舵を取って敵に向かい、また艦長は増速を命じたが、勿論直ぐに速力が上がる訳では無かった。私の居た発射管甲板は、艦首から一段低い、一トッパーの特徴のウエルデッキなので、艦首方向は見えなかった。私は、熱で衰えた体を動かす気もせず、瞬間的に、「これで俺の一生も終わるのだ。司令のお共をして夕月に移って置けば良かった」と思いながら、それでも首だけは、右、左と忙しく動かして、雷跡の通過を待った。その間の長い事と言ったら無かった。それは、遂にやって来た。

 遠く水面に「雷跡」が確認され、やってくる魚雷に備えて船が向きをかえるべく試みる時間はせいぜい数十秒のことだったろう。その間に死を覚悟し、その覚悟を背負って実際に人生を終えた人もいる。この短い時間が、克巳には「その間の長い事と言ったら無かった」と感じられた。まもなく目の前を、はっきりと航跡を残しながら魚雷がすぎていく。

雷跡の白い泡立ちが、左舷に二本、右舷に一本、手を延ばせば届く感じで、艦と反航して、行き違う急行列車の様に通り過ぎて行った。ほっとして「助かった」と思った。九死に一生を得たのだが、何かそれが当たり前の様な気がした。今から思えば、戦争の恐ろしさを知らなかったのだ。

 こうして克巳は、戦場で幾度も体験した、自分の力ではどうにもならない生死の境目で、こちら側にとどまった。踏みとどまったというよりは、まるで取り残されたような気分だったろう。

 二分後、秋風は潜水艦を探知し、二回にわたって爆雷投射を行う。爆雷とは水上艦艇から水中に投下して潜水艦などを攻撃する兵器で、水中で爆発する仕掛けになっている。克巳によれば日本側の記録には、「気泡と油の湧出あり撃沈と認める」とあったが、戦後米軍の記録を調べると、その日、近辺で沈んだ米潜水艦はなかったという。

 秋風が雷撃をまぬがれたのはまったくの偶然としか言いようがなかった。航海長の話では「右五度一五〇〇米から雷撃され、この時船団は八節で之字運動(ジグザグ航法)をして居り、たまたま右に回頭するタイミングと重なった為、魚雷を躱すことが出来た」とのことだった。右から来る魚雷に対し、船首を右に向ければ命中する確率が低くなるのは素人でもわかるが、たまたまジグザグ航法の途中だったというのはいかにも泥臭い現実であり、実に小さい些末な偶然である。克巳も「運が良かったの一語に尽きる」とした上で、こう付け加えている。「潜水艦を狙った爆雷は、相当の深度で爆発するので、爆発の瞬間は、衝撃と共に、海面が僅かに盛り上がるだけだ。海戦映画のように、「壮烈に水柱を吹き上げる」事はない。戦後の「潜水艦映画」を見る度にインチキ臭さを感じるようになった」。

 もちろん日本側も魚雷攻撃は行っていたが、そもそも探知装置の性能で大きな違いがあった。米側がすでにレーダーを備えていたのに対し、日本海軍の売りは肉眼。「見張り」こそがお家芸だった。その結果、対潜だけではなく、対艦の戦闘でも著しい力の差が生じていた。第九次オルモック輸送作戦(多号作戦)最中の1944年12月12日のこと。午前零時過ぎ、オルモック湾内に突入した駆逐艦・桐の見張り員は米艦の艦影を見つける。米側はこの当時、すでに優れたレーダーを備えていたが、夕月と桐が海岸近くにいたこともあり見つけることができなかった。この時点では鍛錬を積んだ「肉眼」が先行した。

 米側の記録によると、この艦は「コールドウェル」で、同艦を旗艦とする第四駆逐戦隊の駆逐艦六隻と、一二隻の上陸用舟艇とで船団をなしていたらしい。何も知らずに近づいてきたコールドウェルに対し、桐の艦長・川畑誠少佐は魚雷による攻撃を命じ、夕月には「我、右より攻撃す。貴艦は左から攻撃されては如何」と打電した。

 しかし、発射した魚雷二本はあたらなかった。目標が近すぎて米艦の下をくぐり抜けてしまったのだ。魚雷は四本しか積んでいないので、高角砲による攻撃に切り替えた。攻撃を指揮した竹内砲術長はそのときの様子を次のように記述する。

「照射はじめ」

 探照灯の光芒がただちに敵艦をつかんだ。

「撃ち方はじめ」

 ダダーン、と三門の高角砲が火を噴く。

「機銃撃ち方はじめ」

 左舷に向いた約二十門の二十五ミリ機銃が、ものすごい発射音を立てて咆哮する。無数の曳痕弾がシャワーのように敵艦を包んだが、今度は発射音のために私の号令が砲側へ伝わらない。

 思わぬ奇襲に狼狽した敵は、モクモクと煙幕を展張しながら高速で南方へ逸走し、ついに取り逃がしてしまった。

 こちらの高角砲はあたらなかったようだが、機銃はかなり命中したはずだと竹内は見る。反対に、コールドウェルの反撃は、桐のマストに翻るのぼりを少し焦がした程度だった。

 しかし、それから約二時間後の午前二時少し前。はるか南の海上に閃光が見え、発砲音が聞こえた。照明弾と砲弾が近くに着弾し、炸裂した。米艦の姿は見えないが、おそらくレーダーを使った射撃で、威力からして二〇センチ砲ではないかと思われた。着弾地点はだんだん近づいてくる。克巳はそのときの恐怖を次のように語っている。

 夕月、桐とも漂泊していて動かなかったから、敵の斉射は次第に正確になり、敵弾は近づいてきた。何よりも不気味だったのは、弾が風を切る弾道音だった。ザァーという弾道音が聞こえるたびに、隣の航海士江口正男少尉と一緒に頭を下げた。練習艦時代に駆逐隊の射撃演習で見たときも、弾道音のすさまじさに驚いたが、この夜は敵は闇の中に潜み、こちらだけが照明弾に照らされて標的にされているのだから、弾も音も数倍大きく感じた。

 日本海軍のレーダーはまだ射撃には使えなかったから、一方的にやられるだけだった。このままでは命中弾が出る。桐の川畑艦長はこのときのことを回想し、「敵の弾着が良好で挟叉(遠弾と近弾が同時に出ること、良好な弾着の意)するにおよび、私(艦長)はいままで敵に横腹を見せていたことに気づき、機械をかけて敵に向首したら敵の射撃が止んだ」と言っている。どうやらまっすぐに船首を向けている相手を識別できるほどには、米軍のレーダーも精密ではなかったのである。

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