堀江敏幸『めぐらし屋』『雪沼とその周辺』
『めぐらし屋』https://amzn.to/4rzms39
この小説、主人公の名が「蕗子(ふきこ)」という。相当な名前だ。加えて作中ではいつも、蕗子さん、と呼ばれている。こうなると作品そのものが名前と一体化して、言ってみれば「蕗子さん小説」というような相貌を呈してくる。
「蕗子さん小説」とはどんな世界だろう。少なくとも人々が蕗をちゃんと「これは蕗だね」と認識しながら食べるような世界。年がら年中雨が降っていそうな世界。豆大福を井戸水で入れたお茶でいただくような世界。ひょうたん池とか、造り酒屋といった目印が点在し、日吉町なんていうどこにでもありそうな地名がひょいと出てくる世界。
いや、背景だけではなく、プロットの上でも「蕗子さん小説」は持ち味を発揮する。蕗子さんは小学生の頃、学校に用意された古めかしい、大振りの黄色い置き傘を偏愛していたという。
蕗子さんは、置き傘を使わせてもらえるよう、朝のうちきれいに晴れていて、下校時にだけ、すぐにはやみそうにない適度な雨が降るのを心待ちにするようになったのだが、なんということか、卒業するまでついにそんな日は訪れなかった。昼から降りそうだと予報があったときには、心配性の母親がかならず自傘を持たせるようになったからだ。なにがうらやましいといって、備えつけの黄色い傘を差せる幸運に恵まれた女友だちほどうらやましかったことはない。
このもじもじするような、受け身で、いじらしくて、周りのみんなも心配性で、でも自分にはすごいことはぜんぜん起こらない、事件はいつもちょっと離れたところで静かに起きている、というのが「蕗子さん小説」の世界なのだ。
何しろ蕗子さん、薄皮の和菓子を食べるといつも、拾ってきた仔猫のお腹に鼻先をあてたらちょっとだけ噛んでしまった幼い頃の感触を思い出し、躊躇するような人なのである。年がら年中体調は悪い。血行が悪くて、元気がなくて。よくこれで小説の主人公がつとまるな、というほどだ。傘を偏愛するのももっともで、全体に低気圧というか、雨が降っている感じの人なのだ。だから、雨が降って欲しい、と思ったりする。 実は筆者はこういう主人公が嫌いではない。小説自体、蕗子さんの血行の悪さをなぞるようにして、ちょっとだけ噛んだ仔猫のお腹の感触を思い出すようにしながら、うっすらとつながりつつ展開していく。静かに耳を傾けないと話の行方を聞き逃してしまいそうになる。
ストーリーの鍵は、タイトルにある通り「めぐらし屋」である。父と母はよく分からない理由で静かに「離別」した。父の死後、蕗子さんが父の住んでいたアパートを訪れると、小学生の蕗子さんが描いた傘の絵を表紙の裏に貼り付けた父のノートから、思わぬ過去が明らかになる。ノートには「めぐらし屋」とある。なんだろう?と思っていると、ちょうどそこへ電話がかかってくる。「めぐらし屋さん、ですか?」との声。
ちょっとおとぎ話チックな展開だ。メルヘンの匂い。蕗子さんには、小学生とおばあさんとを足して二で割ったようなところがある。そういえば、子供とおばあさんはおとぎ話の常連だ。小説家はそんな蕗子さんに対して、やさしく丁寧で、礼儀正しい。どこかで児童文学のロジックが働いているのだ。主人公が言って欲しくなさそうなことは書かれない。書かれないけれど、こちらは読む。たとえば幼い頃の思い出の中で、父と母の関係は次のような絶妙の描かれ方をする(この小説のベスト描写の一つ!)。レストランで、蕗子さんが名前にひかれてロイヤルミルクティを頼み、その濃厚な味に感激。一方、母は「オレンジエード」を注文したのだが熱いオレンジジュースが出てきて、店員に抗議したところ「うちのエードはホットでございます」と言い返されるという下りだ。
ロイヤルミルクティをつくるたびに、蕗子さんはあのときの母の顔と、それをまったく意に介さず、たばこを二本、三本とつづけて吸いながらコーヒーを飲んでいた父の横顔が思い出される。あのころ、父と母はどんな会話をしていたのだろう。家族三人で出かけているのに、さほど楽しそうな雰囲気ではなかった。父はひとりで遠出をすると「ハイライト」の予備を何箱か持って行ったのだが、母がいっしょのときはハンドバッグに未開封のものをかならずひと箱入れさせていて、それが母の機嫌を損ねていた。まるでわたしがたばこを吸ってるみたいじゃないですか、と母は不平を言っていたけれど、蕗子さんはあの空色のパッケージが好きだったので、封を切らなければ飾りとして鞄に入れてもいいと思っていた。
未開封のハイライトの行方が、この家族の有様を一気に照らし出し、思わずしみじみする場面だ。「めぐらし屋」と題されたノートの記録をもとに娘は、父の知られざる生涯を再構築していく。そういう探偵めいた作業がこの小説のメインストーリーなのだが、ミステリーの落ちよりも、元気がないわりに運と生命力とはあるらしい蕗子さんの、ひょいひょいと軽い鼓動を打つような心臓のリズムが心地よい。
実に丁寧で、気遣いに溢れた小説だ。「蕗子さん小説」とは、別の言い方をすれば「ですます調の小説」である。だから、蕗子さん、なのだ。ですます調でないと表現されえない何かがここにはある。ふつうの小説を中華鍋に喩えるとすると、その強い火にあてたらこわれてしまいそうな人間の善意や弱さや切なさを、味が壊れないような、ささやかな火で燻るように料理する小説があってもいいのかもしれない。そこでは皮肉で風刺的な小説とは逆に、思わぬ出逢いや、嬉しい親切があっても、まあ、いいじゃないか、ということになる。
この小説を読むのに向かないのは、落ちがないと気が済まない人、比喩が嫌いな人、小説は悪意だぜ、エグミだぜ、と確信している人、傘だの靴だの鞄だの、どーでもいいと思う人、とにかく雨が嫌いな人、蕗なんか食べたことも、見たこともない人、要するに蕗子さんがあまり好きではない人である。そういう人には勧めません。(2007年6月27日 「書評空間」)
『雪沼とその周辺』https://amzn.to/4rzms39
巧みな語りが伝える、人物たちの息づかい。『雪沼とその周辺』の7つの短編は、いずれも芸術の域に達している。描かれるのは元プロボーラー、料理家、段ボール製造業者、書道家、レコード販売、食堂店主、消化器販売…。決して達人や天才ではないが、特有のこだわりと誠実さをもって「腕前」を磨こうとした人々だ。そんな彼らの姿が、失われゆく昭和の文化とも重なる。
舞台となる雪沼は地方の町。谷間に流れこむ川の一帯を衰頽(すいたい)の影が覆い、変わりゆく先も見通せない。そんな中、「分解して組み立てられるくらいの、単純だが融通のきく構造が、機械にも、社会にも、人間関係にも欲しい」との願いが聞こえる。
町の人々を生かすのは、言葉や記憶からふくらむ想像の力だ。「スタンス・ドット」では、元プロボーラーのピンを倒す音から神話的な響きが鳴る。「イラクサの庭」では、料理家の死に際の一言から、遠いフランスの物語が花咲く。すべてが何となくかしいでいる、との感覚にとりつかれる「河岸段丘」では、雪沼の来し方を見渡す。
「生き物の骨と皮」を含むという墨。だから「生きた文字は、その死んだものから、エネルギーをちょうだいしている」(「送り火」)との死生観は、本作のスタイルの土台でもある。力むことなく、エゴを脱ぎ捨て、聞き耳をたて、右へ左へと話を展開。ときに脇役の人物が思わぬ味を出し、誰が主人公かわからなくなる。ごく小さな町のごく狭い出来事から、視界いっぱいに人生の綾がひろがり、これが世界か、これが人間か、と大空を見上げるような感慨にひたってしまう。等身大の静かなリアリティをたたえた雪沼。そこをおとぎ話のような、時を超えたメルヘンの香りが包むのである。(2019年9月22日 「読売新聞」朝刊)
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