バイリンガルと母語の危機 ~ 超言語の時代?
母語がうまく使えないことがある。母語とは、人が生まれてすぐの幼児期にまわりの人が話すのを聞いて自然に覚える言語である。しばしば親や養育者のしゃべる言語であることが多い。幼少期に身につけるものなので、感じたり考えたりする土台にもなり、情緒安定のためには役割を果たすと言われる。

『UP』2026年3月号より
これまでの日本では、一般的な社会生活の中で複数の言語を使い分ける必要に迫られることはあまりなく、「日本に生まれたら、日本語ができてあたりまえ」というふうに思われがちだった。母語をうまく扱えないという事態など想像したこともないという人が今でも多いのはそのためだ。対照的に、日本語以外の言語を操れるのは「すごい」とされる。つまり、使うのが難しいのはあくまで外にあって習得のために努力が必要な外国語なのである。
しかし、複数の言語が使われることの多い地域では、一番得意で頻繁に使う「第一言語」と母語が異なるというケースもありうる。従来、一定数あったのはいわゆる「母国語」が日本語でも、幼児期に非日本語圏にいてその地域の言葉をまず習得したケースで、家庭で母語を習得しても、学校などで習得した別の言語を習得するうちに、母語が必ずしも得意ではないということにもなってきた。今後もそうした例は増えるだろう。
日本は長らく「単一言語」だとされ、実際、今でも日本語以外の言葉を知らなくとも社会生活で不便を感じることはほとんどなく日本語の優位ははっきりしている。「日本人の英語力は世界でも最低レベル! 国際化する社会で、これはまずいのでは?」といったたぐいの惹句が英会話教室やテスト関連業者などの広告によって盛んに喧伝されてきたが、外国語を使う必要がない国に住む人が、言語の切り替えを得意としないのは当たり前のことだとも言える。外国語習得の最大のハードルを作ってきたのは、日本の社会における日本語の圧倒的優位性なのである。
ただ、そんな状態がここへ来て少しずつ変化の兆しを見せている。大きな要因は日本語を母語とする人が外国語の習得を進めたこと、外国語を母語や第一言語とする人が国内に増えてきたことなどがあげられるが、そのほかにも、より根本から母語の存在を脅かすような事態が進行しつつある。私たちが言語との付き合い方を見直さざるを得ない状況はすぐそこに迫っていると言える。
母語の危機
二〇二五年四月二五日放送のNHK総合「おはよう日本」で、増加するインター校の話題が取り上げられた。元々インター校は海外から来日した人の子どもの教育を担うのが主な役割だったが、このところ、日本国籍の子どもに英語による教育を行うための学校も増えていて、富裕層のニーズが高いという。東京23区では、インター校に通う日本国籍の子どもは、少なくとも四八〇〇人ほどに上る。こうした施設は、国の要件を満たさず義務教育の学校と認められていないケースが多く、「就学義務」を果たしていないと見られてしまうこともあるという。
なぜ、日本に住んでいる子どもを、わざわざ学費が高く義務教育と見なされない可能性のあるインター校に送るのか。もちろんそれぞれの事情はあるだろうが、一つには戦後長らく続いてきた英語コンプレックスが要因だと思われる。日本の中等教育は全体として世界的にも高い水準を保ってきたが、一九七〇年代から外国語教育に対する批判が強まり、「六年間も勉強したのに、仕事で海外に行ってもパーティでろくな会話ができない」といった声がたびたび聞かれる。二〇〇〇年代に入ると産業界からの圧力もあって、文科省はオーラルコミュニケーション重視の姿勢をより鮮明にした。七〇年代に掲げられた「実用英語」という理念は二〇一〇年代には「四技能」という看板にかけかえられたが、基軸としてあるのがオーラル重視であることに変わりはない。インター校で英語による教育を受ければネイティブ並みの英語運用能力が身につけられ、とくに会話については「ぺらぺら」になって、日本特有の英語教育の限界が乗り越えられる、大学入試でも有利になり、海外の大学への進学も視野に入る、日本語は家でやれば十分、といった考えを持つ人が出て来てもおかしくはない。
松井智子による『バイリンガルの壁』はそんな潮流に対し、インターナショナル流行りがもたらす弊害を指摘し警鐘を鳴らす。とりわけ著者が問題視しているのは、とりあえず学校で英語漬けにしておけば安心、日本に住んでいれば日本語は自然にできるようになる、自然とバイリンガルになる、という思いこみである。松井はアカデミックな研究を参照しながら「日本人が英語の学習言語を身につけるためには、第一言語である日本語で高いレベルの学習言語をまず身につけることが、一番の近道」(106)という見方を示し、母語をおざなりにすれば、言語習得どころか精神の健やかな成長にまで弊害が生まれるかもしれないと警告する。
子どもが成長するにつれて言語習得の場は家庭から教育現場へ移る。言い換えれば、「教育言語」が「家庭言語」に代わって言語発達の柱となる。これは単一言語環境でも、複言語環境でも同じだが、複言語環境にある子どもが家庭でしか母語と接しない場合、母語の習得に困難が生ずる可能性がある。学校教育が日常的に英語で行われていれば、たとえ日本に住んでいて日本語を話す家庭に育っていても、母語の発達が疎外されるかもしれないし、下手をすると養育者とのコミュニケーションがうまくいかなくなる。インター校に通ったためにそうした問題を抱えてしまった知人が私にもいる。
もう一つのバイリンガル問題
ただ、インター校やバイリンガルの問題を考えるにあたっては別の視点も必要だ。私が勤務する東京大学では、海外からの留学生のために授業を英語化することの必要性が議論されてきた。こうした流れは決して新しいものではない。東大に限らず多くの大学はグローバル化という理念を掲げて海外機関との連携を進め、学術交流や共同研究、留学生の送り出し・受け入れを積極的に推進してきた。東大では二〇一二年に当時の濱田純一総長が秋入学構想を打ち出し、まずは学事暦を海外のものにあわせることでグローバル化の端緒をつけようとした。
こうした「グローバル化」や「英語化」の背景にあるのは、必ずしも英語コンプレックスではない。現在の大学にとって最大の懸案は少子化と人材不足、そして、それに伴う研究力の低下や経営の困難である。日本の大学や企業は、留学生や人材を海外から呼びこまなければ衰退の一途をたどるだけだとされる。
こうした危機意識の中で、日本の大学や企業の国際化がさらに進めば、当然、外国語を母語とする滞在者は今以上に増加するだろう。すでに現状でも外国人労働者は二,五七一,〇三七人にのぼっている(二〇二五年一〇月時点。前年 二,三〇二,五八七人)。[i]そうなると、日本における「インター」はまったく別の視点からとらえなければならなくなる。母語の危機に直面するのは、日本語話者だけではない。現状、問題になっているのは日本国籍の子どもをインター校に送りこみ日本語ではなく英語による教育を受けさせるケースかもしれないが、さまざまな理由で来日し、子どもに日本で教育を受けさせる人も増えるだろう。もちろん、子どもでなくとも、来日した人が言語問題で苦労するといったこともある。
これまで日本における言語教育については、日本語を母語とする子どもがどう外国語を習得するかといった視点からの議論が圧倒的に多く、たとえば外国語を母語とする子どもがどう日本社会になじんでいくか、どう教育を受けるかといった問題については、最近でこそ注目されつつあるとはいえ、まだまだ十分に討議されているとは言えない。
日本語話者の外国語と、非日本語話者の日本語という言語の問題は対をなしており、今後は教育現場や社会制度全般にかかわる共通の課題として考えることが望ましい。とりわけ、学校教育における言語習得ということを考えるのなら、これまでのように日本語、英語といった言語をどう習得するかという観点から物事を考えるだけではなく、個別言語を超えた、そもそも言語とは何か?という根本的な問題に目を向けることが必要になる。
そこであらためて考慮しなければならないのが、AI技術の飛躍的な洗練である。ほんの一〇年程度前に大学で盛んにグローバル化がとなえられたときには、一般学生の語学に対する意識にしても、留学生を受け入れるための宿舎などのインフラや組織・事務体制にしても十分な土台ができてはおらず、やや理念先行となりがちだった。東京大学では今、このごろの問題意識をきっかけにして整備された授業や宿舎などの制度やインフラが少しずつ実を結びつつあるが、何と言っても環境を激変させつつあるのはAI技術の洗練と普及である。当時、グローバル化のための英語化が教育研究の停滞につながったら本末転倒だ、との危惧を抱いた教職員は少なくなかった。今でもこの懸念が消えたとは言えないが、このわずか数年のAIによる翻訳・通訳技術の進展を目の当たりにすると、数年後には今では考えられないような“言語的バリアフリー状況〟が実現されるかもしれない、という期待はある。すでに英語による研究発表があたりまえの理系の研究者を中心に、機械翻訳なしではアカデミックな活動に差し障りが生ずるといった声も聞かれる。力点は、人によるグローバル化から、技術によるグローバル化へと移りつつある。
超言語の時代
こうした激しい動きの中で、私たちは現実の後を追いながら、あらためて人と言葉の問題を考えることになる。長らく「単一言語」だと信じられていた日本という国が、もはや単一言語ではなくなりつつある。これは日本語を母語とする人がより自由に外国語を使えるようになるかもしれないというだけでなく、日本語を母語としない人が海外から多く移住したり滞在したりすることによっても引き起こされている事態だ。しかも、そこには人間と見分けがつかないほどの言語能力を有するAIもからむ。私たちは自分が発しようとする言葉を、機械に「外注」できるということを発見した。
これだけ言葉をめぐる環境が変化している以上、学校でどのような言葉の教育を行うべきなのか、考え直さなければならない。そして——高等教育機関に属している立場で言うと——今後は個人の言語運用能力をどのように試験などで評価するのか、そもそもこれまでのように言語運用能力を一つの大きな指標にして個人の適性を判断することが妥当だと言えるのか、といった問題についても熟慮しなければならない。
そこでからんでくるのが、「超言語」という概念である。
松井の『バイリンガルの壁』では、複数の言語を扱う環境に置かれると言語発達に悪影響が及ぼされる可能性があるとされ、安易なバイリンガル流行りに警鐘が鳴らされているが、松井はバイリンガルのデメリットばかりを強調するわけではない。バイリンガル児の秀でている点として松井があげるのはメタ言語能力である。メタ言語能力とは、言語間のスイッチを比較的容易に行なえたり、言葉を単に使用するだけでなく、言葉の音や文法といった外形的な特徴について、意識したり言語化したりする能力を指す。バイリンガル児は複数の言語を扱うことに慣れているため、自分自身の母語であってもふだんから一定の距離をおいて付き合っている。だから、言葉の働き方を上手に意識にのぼらせたり描写したりできるし、言語間のスイッチの切り替えをスムーズに行って、それぞれの特徴を見つけたりできるのである。
日本の言語環境が今後、変わっていくのは間違いない。富裕層や高学歴層だけではなく、より広い層で複数の言語を扱う必要も出てくるだろう。それに加えてAI技術の進展により、別の意味での「距離」も意識せざるを得なくなる。かつては当たり前だった、機械による言語生成のぎこちなさはほとんどなくなり、AIは人間並みかそれ以上のなめらかさとともに言語の生成を行えるようになった。今や私たちは、自分の言葉遣いが自然で適切かどうかを機械に判定させ、誤りを修正させたり、より効果的な表現を提案してもらったりしさえする。少し前では考えられなかった事態である。立場はすっかり逆転した。電卓が私たちの数字との付き合い方を変えたように、AIは私たちの言葉との付き合い方を変えつつある。
[i] 「「外国人雇用状況」の届出状況まとめ(令和7年10月末時点)」(厚生労働省)より。https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_68794.html
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