至近距離から見た戦争
第一章 「ビハール号事件」とAさんの証言

『父たちのこと 一九四四年のクラスメイト』(講談社)は7月23日発売。第一章と第二章からの抜粋を掲載する。まずは第一章の冒頭部である。
太平洋戦争末期、戦況が悪化する中、つい最近まで学校で机をならべていたAさんと父は、 南方の地でたまたま再会した。クラスの結束は固く、かつての仲間となれば卒業後も特別な気持ちになったようである。二人はしばし、よもやま話にふける。しかし、話に熱が入るほどに、会話は人目をはばかるひそひそ声になった。結果的に、Aさんは表立って口にできない自 身の体験を父に託すことになる。
そして父の手記にはこうある。
戦死したAとは、戦場で一回だけ会った。情けないが、会った場所も、日時も覚えて居ない。その時の話しの内容と、二人の配置から考えて、それは私が駆逐艦秋風に乗った昭和一九年六月中旬から、Aが海防艦佐渡で戦死した八月二二日までの間に違いない。この間には、秋風は内地に帰らずマニラを中心に行動して居たし、Aはその頃佐渡主計長として、ヒ六九船団(七月一四日門司発七月三 〇日昭南〔シンガポール〕着)とヒ七〇船団(八月四日昭南発八月一五日門司着)に参加していた筈だから、恐らくそのどちらかの護衛航海の途中マニラの港で偶然会ったのでは 無いか。その頃のマニラは緊迫した空気で、我々が利用出来るような所としては、水交社 は閉めて居たし、レスや気の利いた店なども無かった。またお互いに忙しかったので時間 も割けなかったから、立ち話に終わってしまった。
その時彼からいろんな話しを聞かされたが、どれも初めて耳にする戦場の裏話で、当時 は口に出せないような内容だった。彼は、独特の訥弁で、ぼそぼそと話すのだったが、私 が深刻な顔で聞き役に回ったのを見て、話しにも熱が入った。
話題の中心となったのは、いわゆる「ビハール号事件」だった。事件の概要は次のようなものである。「昭和一九年三月一日、利根は元来第七戦隊であったが、臨時に一六戦隊(左近允 尚正 司令官 兵四〇期)に属して、インド洋の交通線破壊と敵商船の捕獲を目的に、ジャカル タからインド洋に出撃した 」「三月九日利根は英商船ビハール号を発見、停船命令に従わない為砲撃撃沈し、女性を含 む八〇名を救助、俘虜とした。左近允司令官(旗艦青葉座乗)は利根の黛 (まゆずみ) 治夫艦長(兵四七期)に「俘虜は処分すべし」と命令したが、黛艦長はこれに従わず、作戦終了後ジャ カルタで女性とインド人一五名を上陸させ、利根は左近允司令官の指揮を離れシンガポー ルに向かった。所が、その途中バンカ海峡リンガ湾上で、黛艦長は残りの俘虜六五名の処分を命じ、深夜海上で一人ずつ斬殺し死体を海中に投棄した」
Aさんはこの事件の現場に居合わせただけでなく、英語ができるという理由もあって、ほとんど一人で数十人に及ぶ捕虜たちの面倒を見ており、その過程で捕虜たちと気持ちを通じ合わせるようになった。当然、捕虜の「処分」には反対した。しかし、……
Aさんが目撃した凄惨な現場、連合軍による裁判のやり方、海軍上層部の対応など、戦争の暗部が凝縮された事件だが、私にとってとくに気になったのは、通訳の役を担ったAさんの心境であった。言葉で直接やり取りするようになった相手とは、征服者と被征服者という関係をこえて、人間的な情がうまれてしまった、とAさんは言っていたという。

第二章 マニラ陥落と父の「逃亡」
つづいて第二章である。この章では、陥落寸前のマニラから父がいかに「逃亡」したかを描く。

マニラは多数の「沈没艦船乗員」であふれていた。海軍は飛行機を手配し、沈没艦船の乗 員、特に士官をなるべく多く内地に帰すようにしたが、もはや使える航空機の数は限られてい た。米軍の侵攻も早く、「一二月一五日にはレイテから帰る「桐」の跡を追うように、敵上陸 部隊はルソン島南隣のミンドロ島に上陸、航空基地を整備し、空母機と相俟って日中マニラ上 空は無数の敵機の跳梁に委ねる他無いありさまで、マニラ脱出は思うに任せなかった」。
他方、命からがら逃げ延びての「難民」生活とはいえ、そこには奇妙な待遇の厚さもあっ た。父の克巳ら士官が宿泊したのは、水交社にあてられたエルミタ地区の「デューイ」(今では「ロ ハス」)大通り一〇〇〇番地の高層ホテルで、「沈没艦の士官がひしめき、飛行機の順番を待っ」ていたという。ここは眺めのいい高級ホテルで、餓死者が続出していたオルモックとは違 い、清潔なベッドもあった。ただし、ホテルの設備はほとんど稼働せず、エレベーターも動なければお湯も出ない。そして窓の外をよく見ると破壊された日本軍の艦船が湾内にあふれていた。ほんの半年前の六月、克巳がマニラ入りしたときとはすっかり様がわりし、マニラ湾は「日本艦船の墓場」と化していた。
どうやら陸軍は、マニラを捨てて山中への転進を決めているようだった。父の手記には以下のようにある。
水交社に泊まってから数日後の早朝、窓から下を見ると、マニラ湾に沿う広いデューイ 大通りを、北に向かって歩く陸軍部隊の長い長い列があった。
誰もが徒歩で、背囊、小銃、その他ありったけの装具を身に付け、蒸し暑い曇り空の 下、軍服には既に汗が滲んでいた。兵士たちは荷物や機関銃を満載したリヤカーを引き、 誰もが目先の地面を見詰めて歩いている。蟻のように北へ向かう隊列を見た瞬間「陸軍は マニラを放棄する積もりだな、海軍はどうするのか」と考え、不安に駆られた。
事実、陸軍の山下司令官は、レイテ決戦で傘下の有力部隊を失った現在、平野での米軍 との遭遇戦やマニラでの都市防衛を諦め、ルソン北部山岳地帯への転進を決めたのだっ た。 何より克巳にとって絶望的だと思えたのは、この陸軍部隊の「前近代的な装備」だった。
しかし、海軍はこんな状況の中でも、マニラを死守する覚悟のようだった。急遽、創設された寄せ集めの「マニラ海軍防衛隊」(マ海防)に徴発されることは、そのまま死を意味した。
まさにそのとき、克巳に本土への帰還命令がくだる。しかし、ほっと息をついたのもつかの間だった。
その朝、まだ真っ暗な午前三時に起床、克巳は身支度を調えた。何しろ乗艦が沈没して海に 飛び込み、命からがら助かった身なので、持ち物はほとんどない。「桐」に救助されたときに クラスメイトの高田中尉にもらった陸戦服を着ていただけの、まさに着の身着のままである。
集まった乗客は十数人だった。指定の場所でバスに乗りこみ、マニラ近郊のニコラス飛行場 に向かった。上空は米軍機が我が物顔で飛び回っていた。いつ攻撃があってもおかしくない状況なので、バスは室内灯を消し、ヘッドライトもつけずに深夜の闇を空港にむけてひた走っ た。
やがて目的地の空港に到着。現地は闇につつまれていたが、克巳は滑走路の端に降りたって思わず息をのんだ。そこにあったのは「長く続く高さ数メートルになろうかと思われる灰白色 のジュラルミン屑の山だった」。艦船の墓場と化したマニラ湾と同じく、ニコラス飛行場もまた日本の航空機の墓場と化していた。「言うまでもなく敵機の襲撃で破壊された日本機の残骸 だ。飛行機の残骸をトラクターで押しやり、滑走路を僅かに開けて離着陸するのだ」。
ところが、どうも様子がおかしい。
我々の乗るダグラス機は一〇〇米ばかりの所に居たが、静まり返って動く気配も無かっ た。小一時間も待ったが、そろそろ東の空が白み掛けた。「早く飛び立たねば敵の空襲が 始まるが」と皆がいらいらし始めた頃、主、副操縦士の二人が現れた。見たところ二人共 寝不足らしく不機嫌だった。二人は飛行機に入ったが暫くして出てきた。どこかのピンが 折れたかしてエンジンが掛からないのだと言う。「これはえらい事になった」と克巳は思った。居合わせた脱出者たちはみな、焦燥感に駆られ た。その視線を集めながら操縦士達は修理にかかり、三〇分ほどがすぎた。空には明るさが広がる。ついに夜は明けてしまった。ちょうどそのときだった。「ブルッと音を立ててエンジンが掛かった。乗客はほっとして皆飛行機に乗った。機内には椅子が二つか三つしかなく、大部分の客は床に腰を下ろすしか無かったが、そんな事はどうでもよく、これで助かったと思ったのだ」。
しかし、そこであらたな障害が起きた。操縦席から操縦士が顔をだして乗客の人数を数え、 こんなことを言った。「一四人か、この飛行機は脚が引っ込まないので、(空気抵抗が大きくな り)一〇人しか乗せられない。四人は降りてください。マニラの司令部にはその旨伝えてあるのに、どうして一四人も回して来たんだ」……(以下、続く)
この後に起きたことは、克巳にとって障碍忘れられない記憶となり、死の瞬間までついてまわることになった。
第2章では、ナマの形で血が流れるわけではない。米軍はすぐそこに迫っているものの眼前には現れないし、砲火の音も聞こえない。凄惨な爆撃や、炎をあげて沈没する艦船の描写もなく、あるのは残骸と廃墟だけである。しかし、これは克巳の残した記録でも、もっとも死を間近に感じさせるものだと思う。
すでに登録済みの方は こちら