綿矢りさ『憤死』『蹴りたい背中』
村山由佳さんにつづき、同じく文士劇『風と共に去りぬ』でご一緒した綿矢りささん。書評や文庫解説を複数書いているので、『憤死』(河出文庫)と『蹴りたい背中』(河出文庫)の評&動画解説を掲載します。評はそれぞれ2013年と2019年に書いたもの。
稽古時の綿矢さんはいたずら小僧のような面がある一方、「オレについてこい」的なリーダーシップを発揮したり、インドの山奥に居を構える仙人のような「仙人笑い」を浮かべたり、さらにベテラン和尚さんのような厳しい透徹した目を光らせたり……。さすが、というほかないおもしろい方でした。
なお、『憤死』中の「おとな」を授業であつかったとき、「これは実話にちがいない! こういうものを活字にしてもいいのか!」という意見を言う受講者がいました。作者としては「しめしめ」でしょう。
「手首を掴む」~『憤死』
本書巻頭の「おとな」は、四〇〇字詰め原稿用紙にして4枚足らずのごく短い作品である。この書評欄にまるごと引用するのも可能なほどの掌編。でも、実にパンチが効いている。これを立ち読みした人は、思わず本を購入するのではないだろうか。
語りは幼い頃の夢の話から始まる。「何だあ、子供の夢かあ」と思う人もいるかもしれない。何となく展開が読めそうな気がする。きっと、少しだけ不思議で、少しだけ不安になるような、ほどほどに幻想的な、でも感傷的な余韻に満ちた終わり方をするんだろう、などと。実際、冒頭部では、幼い頃は「年月が過ぎてもいつまでも色あせず忘れられない夢があり、思い出と呼ばれる現実の過去と、ほとんど同じ量が頭にストックされている」というような一節があって、その後も、弟が寝る前にぐずったとか、自分が同じマンションに住む夫婦に預けられたといった、何となくもよもやした、ぼやぼやした、それほど緊張感のあるわけでもない日常風景が描かれている。
1頁め。2頁め。読者は思う。ああ、もう終わりが近い。残された分量は2頁もない。このまま終わるのかなあ、と。すると、少しずつ胸騒ぎがしてくる。そういえば、あの昼寝の夢は変だった。母親も預けるのは不安だったようだ。そこへ、急に言葉が割り込むようにして入ってくる。
と思っていたのがいまから二〇分前までの私だ。書き始めて気づいた。五歳だった私が、あんな夢を見られるわけがない。
何だかにわかに言葉の「顔色」が変わったような気がする。何がどう違うのかはわからないけれど、今までのうすらセピア色の感傷的な雰囲気がどこかに吹き飛んで、マンションの部屋が白々と蛍光灯で照らしだされたような気分である。はっと目が醒めたような。それまで積み上げてきた物語がぐらっと傾く。語り手が自分のストーリーに割り込んでくるなんて、ポストモダン小説の手法によく見られた転覆的な仕掛けだろうか。でも、それともちょっと違う。そんな陽気で、祝祭的なものではない。ここから始まるのは、もっと怖い話である。ぐいっと手首を掴むような。刑事に逮捕されるような。
私は家族とともに、とうの昔に引っ越ししたが、あの夫婦はいまもあのマンションに住んでいるだろうか。その確率は低い。しかし二人がまだ関西に住んでいる可能性はそれよりは高い。私はペンネームを使っているが、もしかしたら彼らは、あのりさちゃんが違う名前で小説を書いているとどこかから聞いてすでに知っているかもしれない。もし知っていたら昔のよしみで興味をひかれて、この本だって読んでいてもおかしくはない。
あれ、「りさちゃん」なんて言ってる。そういえば「綿矢」というのはペンネームだが、「りさ」は本名だったはずだ。何、じゃあこれ、ほんとの話? え? え? ……こんなふうに思わせるあたり、芸が細かい。でも、ほんとに手首がしめあげられるのはその次だ。言葉の顔色がいよいよ怖いものになってくる。語り手はさらにじりっと身を乗り出して、こう続けるのだ。
ねえ、おぼえていますよ。ほかのどんなことは忘れても、おぼえていますよ……。
いや、引用はこれくらいにしておこう。小説はあと10行足らず。ぜひ、この最後の数行の醍醐味を実際に作品を手にとって味わってほしい。え、ほんとの話?と思わせる部分も含めて、書き手の存在の重みを感じさせる部分だ。これは小説家として、勝ちだろう。とくに最後の一行は見事。

『憤死』はある意味ではいびつな構成の作品集だ。冒頭の「おとな」はたった4頁だが、それにつづく作品は「トイレの懺悔室」=62頁、「憤死」=35頁、「人生ゲーム」=59頁。別に掌編小説集というわけではない。ただ、冒頭に「おとな」が置かれていることの意味は、全編を読み通してみるとよくわかる。なるほど。作家はあれをやりたくてこれらの小説を書いたんだな、と思う。つまり、「おとな」のあの言葉の〝割り込み〟である。急に顔色の変わった言葉が、いきなり手首をぐいっと掴む。
本書の残りの三編のうち、「トイレの懺悔室」と「人生ゲーム」は〝ホラー〟などと呼ばれてもおかしくない筋立てになっている。「トイレの懺悔室」では、子供達を家に呼びこみ、トイレを使って懺悔ごっこのような儀式をしていた男の「その後」が描かれている。男は大病をして見る影もない姿。かつて小さい頃に主人公とともに儀式にくわわっていたゆうすけが、今、男の面倒を見ているという。しかし、実際に家に行ってみると何だか話しが違う。それで主人公が例のトイレに行くと…。ラストも含め、けっこう理詰めで展開される話なのだが、そうした論理よりも声の響かせ方に強い印象を受ける。クライマックスでは、「声だけがものすごく近くで皮膚にまとわりつ[く]」のだ。ぐいっと聞こえてくる声なのである。
とくに作家の持ち味が出ていると思ったのは、「憤死」である。出だしからして、実にとんがっている。
小中学校時代の女友達が、自殺未遂をして入院していると噂に聞いたので、興味本位で見舞いに行くことにした。
こんな冒頭部があったら、もう行けるところまで行ってしまえそうだ。実際、作品はこの冒頭部のインパクトを生かして、どんどん歩みを進める。回想もあるし、考察もあるのだが、語りの進み行くスピードはぜんぜん落ちない。自殺未遂を犯したのは、昔から太って醜かった佳穂(かほ)。凡庸なくせに「自慢しい」の子で、およそ人間的な魅力にも乏しかったが、友人のいない語り手にとってはとにかく一緒にいられる数少ない人間のひとり。好きではない、むしろ嫌いなくらいなのに、「特別嫌いというわけでもなかった」という消極的な理由でずっと近くにいた。
小説では醜く凡庸な佳穂の今昔がたっぷり描かかれるが、それと同じくらいに、その佳穂に対して語り手が持ってきた、こもった感情が描出される。彼女は隠し持った悪意とともに生きてきた人物である。それが語りのトレードマークにもなっている。とんがって意地悪なそのいちいちの叙述は、言ってみれば小説中の「宣言された悪意」であり、看板であり、語り手にとってはそれを背負いつづけることが仕事なのだ。
そんな自意識過剰な「意地悪屋さん」の彼女と、どちらかというと無意識過剰の佳穂との妙な拮抗を、作家は最後まできちんと描いてみせる。ふたりが実際にかわす言葉にはそういう関係だからこその、お互いに了解済みの「嘘」も多いようだが、小学生時代に佳穂が怒りを爆発させたときの「いいえ、なんでもありません」という場違いな言葉はすごく印象に残る。佳穂の怒りは、周囲の理解から飛び出してしまうような予測不能で捕捉不能の感情なのである。どうしていいかわからない、手のつけられない怒り。これが作品のテーマとなる。
どうやら佳穂は今回、また怒りを爆発させたらしい。怒りのあまり死を選びそうになった。その事情を知って、語り手はふと「憤死」という言葉を想起する。「ああ」と思う人も多いだろう。お楽しみの部分だ。あったよねえ。憤死。ありえないよね。憤死とか。噴飯とか。あははは…。筆者はそこで「発狂」という言葉も思い出した。「憤死」が歴史の授業の定番だったのに対し、「発狂」はもっとカジュアルに使われた、しかし、やっぱり「憤死」と同じくらい変な言葉である。わけのわからないものを指す言葉だから、言葉そのものにもわけのわからなさがつきまとう。
「発狂」にしても「憤死」にしても語り手には遠く手が届かないものだ。でも、醜く凡庸な佳穂はそれを知っている。そんな佳穂のことを、語り手がほんとうは好きなのか嫌いなのかは最後までよくわからない。語り手には背負った看板があって、彼女の感情はその看板の隙間から漏れ聞こえてくるだけである。とにかく「すごい」とは思っている。だから負けまいとする。ラストは小説の言葉らしいたしなみや奥ゆかしさなど放擲され、佳穂に対しての言葉で終わる。
お姫さま、死ななくてよかった。人には嫌われるかもしれませんが、いつまでも天真爛漫でいてください。
佳穂に対しての言葉だが、本人には決して聞こえないだろう。語り手は最後までほんとうの感情は隠し持ったままなのである。でも、言葉だけがぬっと小説の外に出ようとしている。ともすると小説的言語が陥る微温的で散逸的な世界の外に、出たい。何かをぐいっと掴みたいのである。
冒頭の「おとな」の話に戻ろう。実は筆者はこの作品は活字で読む前に、ある人による朗読を聞いていた。その朗読者のパフォーマンスがすばらしかったこともあるのだろうが、この作品、実際に声に出して読まれると、インパクトがさらに増す。そういう潜在力を持った作品なのだ。声がぬっと飛び出して手首を?んでくる感覚を、生々しい朗読で味わうのもいいかもしれない。(「書評空間」2013年6月10日)
『蹴りたい背中』~「読売新聞」「平成×文芸・名著」
『蹴りたい背中』が芥川賞を受賞したのは平成一一年。著者の綿矢りさは史上最年少の一九歳だった。若い女性作家の華々しい登場に出版界も大いに沸いたが、これは決して一過性の熱狂ではなかった。
本作は今読み返しても圧倒的だ。世界を新鮮に切り取る言葉が次々に繰り出され、今ここに新しい人がいる、新しい視点がある、と感じさせる。何より、男の理屈の支配してきた近現代文学に異なる視点を持ち込み、いい意味での「へそ曲がり」を体現した功績は大きい。後の女性作家たちに道を開いたのは間違いない。
主人公の女子高生長谷川は『人間失格』の主人公を思わせる自意識の持ち主だ。自分と周囲を観察して鋭くその欺瞞をとらえる。友達が少ないのは「人をえらんで」付き合っているからだという。
にな川は、一風変わったオタク男子。女性タレントに自己を投影し、女性誌や香水をためこんでいる。タレントの顔と、幼女の裸体とをつなぎあわせた写真を作っているといったエピソードは、少々禍々しい。
長谷川はそんなにな川に奇妙な感情を抱くようになる。「この、もの哀しく丸まった、無防備な背中を蹴りたい。痛がるにな川を見たい」というのだ。陸上部のランナーである長谷川の脚は「ごぼう」。しかし、武器にもセンサーにもなるそんな脚が、展開の中で少しずつ意味を変え、最後、そのつま先ににな川の視線を感じた長谷川は静かな興奮をおぼえる。
青春の匂いがたっぷり。しかし、その裏側に甘くもさわやかでもない薄暗さと毒がある。
昭和から平成にかけ、文体で書く作家は減った。文章が連続的な線の力を生むよりも、面を覆うようにして個々の言葉が輝きを持つ。本作も、不協和音を混じらせつつ瞬発力で読ませる作品なのである。 (「読売新聞」2019年4月9日)
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