社会はなぜ「過剰な知覚」を罰するのか
「小説トリッパー」での連載『物語が盗む』の第三回ではシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』をとりあげました。この小説は究極の「漏れ聞こえ小説」と言えるものですが、その背景には、この時代、過剰な知覚が反社会性を帯びるようになり、ときには狂気と結びつけられるようになったことがありました。以下、抜粋です。
『ジェイン・エア』という小説を成り立たせるのは、声の漏れ聞こえだと言っても過言ではない。近代社会では知覚には厳しい規制がかけられるようになった。野放図に見たり、聞いたりすることは許されない。目や耳だけでなく鼻も口も、そしてもちろん手も、近代の知覚は徹底的に常識によって縛られ社会化されてきた。たとえば話し相手の匂いを嗅いだり、身体を触ったり、舐めたり噛んだりしたら、たちまち反社会的人間として追放されてしまうだろう。嗅いだ匂いや、触った感触について不用意に口にするだけでも、社会的に制裁を受ける。
過剰な知覚行為に対して、社会は非常に抑制的になったのである。従って周囲の知らない間に——ましてや対象者の望まない形で——聴覚もしくは視覚情報を得るといった行為に対しても社会の目は厳しい。盗み聞きやのぞき見は逸脱的で危険な行為と見なされ、排除される。他者からの侵犯に対して人は敏感になった。他者の知覚から守られたい。見られたり聞かれたりしたくない。だから、他者と距離を取ることで、侵犯されないようにする。侵犯することにも当然、慎重になる。
そんな時代にあって、『ジェイン・エア』では過剰な知覚に取り憑かれたメインキャラクターを登場させます。この小説は、節度を超えて見たり聞いたりすることが読みどころとなります。このあとに書かれる近代小説でも、何らかの意味で「過剰な知覚」をかかえた中心人物がしばしば登場します。「過小な知覚」(つまり鈍感大魔王のような)主人公を思い浮かべるのは難しいでしょう。
『ジェイン・エア』はまさに過剰に感じてしまうことが――節度を超えて見たり聞いたりすることが――読みどころを生み出す小説である。ジェインとロチェスターがいよいよお互いの愛を確かめ合うという場面では、ジェインは果樹園の茨やジャスミン、ナデシコなどの香りに混じってロチェスターの葉巻の匂いを嗅ぎ分ける。「私はあたりを見回して耳を澄ませた。木々には果実が熟している。小夜鳴き鳥が離れたところで囀っているのが聞こえる。動く物はない。近づく足音もない。でも香りが強くなる。逃げないと」。ジェインはロチェスターに見られずにその場を立ち去ろうとする。これに対し、すでにジェインの存在に気づいていたロチェスターは、こっちにおいで、と声をかけて彼女をびっくりさせる。
ジェインの知覚はたしかに冴えている。彼女の世界には音や匂いが溢れている。しかし、だからといって、彼女が上手に情報を得られるわけではない。むしろ、ジェインは知覚の過剰さの中で、いかに正しく世界を知ろうかともがいているように見える。これより前、ロチェスターが意味ありげなたとえ話で自分の過去の過ちを振り返り、ジェインによって正されたい、救われたいとほのめかす場面があるが、返事を待つロチェスターの前で、ジェインの知覚はその鋭敏さを持て余すかのように、答えに窮して途方に暮れるばかりである。
またおもしろいのは、ジェインが危機的な瞬間になると、外界からの刺激により敏感になり、音や光に反応する傾向がある、ということです。これはしばしば異界的なものの予感とも結びつきます。
よく知られているように幻覚という概念が生まれたのは近代でした。それまでは幻覚は失調でも病でもなく、むしろ特権でした。
他の人に聞こえていないものを聞く、他の人には見えていないものを見る、というのはいわば特権で、かつては天才にのみ与えられるありがたいものとされた。実際、哲学者や宗教者にはそうしたエピソードがあふれている。ピタゴラス、ソクラテス、聖アウグスティヌス、ガリレオなど多くの天才が「声」を聞いてきた。ソクラテスは道順に迷ったときでも、「声」に導かれたという。
こうした経験が「幻覚」(hallucination)と呼ばれるようになったのは比較的最近のことである。幻覚という概念は古代世界には存在しなかった。はじめてこの語が使われたのは19世紀はじめである。人間の知覚機能が関与していないのに、まるで何かが知覚されたかのように脳が処理してしまう事例を指す言葉として、以前からあったhallucinationという語が転用された。
近代社会において幻聴や幻視は異常な精神状態のあらわれとされ、病や不調を示す兆候と見なされるようになった。こうした警戒感は、根にある病因の潜在的な深刻さを考えれば合理的な反応とも言えるだろうが、同時に幻覚が知覚の安定を脅かすという点も考慮に入れる必要がある。ある人が別の人と同じ場にいながら、同じものを見たり聞いたりできないという状況は、私たちにとってきわめて厄介である。私たちがよりどころとする「正気」は、安定した情報共有が行われればこそ保たれる。情報が共有され、感情が共有されることで倫理観も共有される。この土台がゆらげば、コミュニケーションは機能不全に陥り社会は不安定になっていく。
「盗み聞き」や「漏れ聞こえ」は一見、幻覚とは正反対のように思えるかもしれませんが、果たしてほんとうにそうでしょうか。言葉が聞かれるべきか、聞かれるべきでないか、という境界が強く意識され、ときに言葉がその境界を越えていく、という意味では、幻覚は漏れ聞こえや盗み危機と同じ領域にあると言えるでしょう。そしてそうした領域にある言葉こそが、物語の中で大きな意味を持つわけです。漏れ聞かれた言葉は物語を動かす。メロドラマ的な秘密の開示はその典型でしょうが、秘された事実でなくとも漏れ聞かれたというだけで、大きなインパクトを持つのです。これはおそらく、外に向けて語られ得ない言葉――他者が本来聞くべきでない言葉――が何らかのきっかけで拾われて耳にされるという状況が、物語を生む場だからでしょう。なぜ聞くべきでない、語られるべきでない言葉はとりわけ意味深いのか。少なくとも物語が本来的に盗むのはそのためです。そして、近代社会ではそこに病が関係するのです。近代社会は、語ることの病に目覚めた社会だと言えるでしょう。
幻覚といえば統合失調症を思い浮かべる人も多いでしょう。次の第四回では芥川龍之介の作品をとりあげつつ、統合失調症における幻覚の問題について考察します。
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